晴れの日、褻の日。

前回の話の中で「晴れの日」に触れたので、今回はそれに関連する思い出話を。

ネットで関連する検索をかなり探したのだがあまり情報が出てこなかった。
(古い話なので当然か)
関連する奥山個人の蔵書も年末年始、探してみたのだが、発見できずにいる。
しかし、そのもの自体は奥山の宝物の一つとして絶対に我が家の中にある。

 

皆さんはメダルゲーム(コインゲームともいう)を遊んだことがあるだろうか?
そう、大きなゲームセンターの別フロアにあるアレである。
ブロック崩しやインベーダーゲームにはじまるアーケードゲームや、
プリクラ、UFOキャッチャーなどと並び、
メダルゲームはゲームセンターの大いなる華、メインカテゴリの一つである。
ビデオポーカー系、落ちもの(ペニーフォール)系、ビンゴや競馬などの大型機、などなど、
購入した(借りた?)メダルを投入し、増やそうとして遊ぶアレである。

カジノではなく換金出来ないコインを増やそうとして何が楽しいのか?
楽しいのである。
手元のメダルがカジノ同様、簡単には増えないが、
増えて手元にバケツいっぱいのメダルとなった時の嬉しさたるや。
お金に戻すことができなくともその場その瞬間、至福の喜びなのである。
そもそも、そんなものを発明し、そんなものが存在するのはカジノが禁じられてきた
日本だけなのである。
(風営法5条がうんたらかんたらという法的ウンチクは今回は完全割愛します)

それを生み出した人物は真鍋勝紀氏(2007年67歳で死去)という。
そのメダルゲーム事業を主業として業績を上げ、
上場まで果たしたユニークな企業であった。
その企業名、名を「シグマ」と言った。

かつては都内を中心に数十店舗のゲームセンター
(「GAME FANTASIA」と言えば、ああと思い出す方もいるか)を展開し、
メダルゲームを中心として、それにより上場まで果たした時代の一企業である。
もうかなり以前にパチスロメーカーに買収され、アドアーズと名前を変え、
その後、運営企業が何度か変わってしまい、
その創業時のイズムを語る人はめっきり少なくなってしまった。。。

以下は奥山の記憶と思い出前提で話をする。
シグマの創業者真鍋氏は若かりし時、湘南の露天にあったパチンコ
(といってもパチンコ店で見かけるやつではなく、ピンボールゲームのシンプルなやつ)
を楽しく遊ぶ親子、ささやかな景品がもらえる時に喜ぶ子供、またそれを見て喜ぶ親を見て、
『人間が「なんでもない日常(褻の日(けのひ)という)」を重ねていく中では
記憶に残らないでもささやかな幸せを感じられる、
「ささやかな晴れの日」が人生を豊かにする』
と考え、それを天職にしようと志したのである。

東京大学在学中に真鍋氏はその日常のささやかな幸せを集約・集合化するには
どう考えるべきかを論文にしている。
(シグマ理論。関係者有志のための非売品の論文であり実物を持っている人は
もはや数少ないはずであるが、奥山の書庫には、ある。僕の宝物の一つとして。)
それを基礎にして有志とともにシグマ社が起ち上がり、メダルゲームが日本に広まって、
都市には必ずある日本独特のゲームセンターの一角を形成したのである。

若かりし奥山はメダルゲームが好きであった。
好きが高じて店員さん達と仲良くなり、店長と仲良くなり、経営者達と知り合い、
上場を果たしたのちのバブルによる株価急落の状況で自分が
できればシグマ社の株を買い集め企業理念を尊重する
大株主オーナーになりたいとさえ思ったものである。

ビジネスマン、サラリーマンの日常は楽しいことばかりではない。
面倒くさいこと、悩み、トラブル、などなどどちらかというと見城氏ではないが、
「憂鬱でなければ仕事じゃない」が日常。
褻の日(けのひ)とはそういうものである。
一杯のコーヒーに日常の安らぎを見出す人は多いが、
それは「晴れ」ではない。
晴れの日というのは「結婚」「成人」「出産」「入学」、、、
そういう、人生にメモリアル、大切な記念日として残るであろうほどの特別に晴々しい日。
「晴れ」を集団的に、エリア的に発生させた晴れの日が
「お祭り」「縁日」であり「花火大会」であり、「学園祭」、「発表会」、「修学旅行」、
「甲子園」など各種スポーツの「地方大会」「全国大会」。

そういった晴れの日は子供の時には多くとも、
大人になるほど、歳をとるほど、極めて少なくなっていく。
(地域の年に一度のお祭りなどを人生に必須と考え、
心の支えにしている人が多いのも頷けるのである)

褻の日ばかりでは人生が味気ないのである。
今どきの言葉で言えば「上がる↑」要素が人生に必要なのである。
それは個人に必要なものなので、人それぞれ違っていて当然良いのだが。

ささやかでもそういうものを都会の日常に作り出せないか。
そんなことばかりを考えつくし、ビジネスにした真鍋氏はすごいと思うのである。
大リスペクトである。

メダルゲームもどこかの業界の安売り競争や手数料競争にも似て、
千円で購入できるメダルの量がインフレを続けている。悲しい限りである。
(UFOキャッチャーで景品が取れた時の喜びはプチ晴れの日なのかもね。)
当初のメダルゲームに見出した「日常の晴れの日の喜び」の原点こそ、
人間が日常に求めているものではないのだろうか。

「おもてなし」という言葉を使う側の反対の顧客側の目線で言えば、
顧客個人にとっては「褻ではなく記憶されるかもしれない「晴れ」」こそ
サービス全般に求めているものなのではなかと思うのである。

機能は重要だ。インチキなサービスではそもそも晴れは作り出せない。
しかし、「機能」は顧客満足の全てではない。
ビジネス、サービスとして
お金を手に入れることを考えるとき、
惰性で給料をもらう、機能によるお金をもらうのではなく、
相手を満足させる「晴れ」をいかに作り出すか、いかに作り出し続けるか、
それを常に考え続けることこそ、それぞれの仕事、ビジネスなのだと思う。

 

(2022/01/23 奥山記)

参考
故真鍋勝紀氏の個人会社
https://ja.wikipedia.org/wiki/ケイエム企業
シグマのOBの方のブログ(数少なく発見できたもの)
http://kit2002.blog60.fc2.com/blog-entry-234.html

 

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祝日はずらさずに。

皆様あけましておめでとうございます。
本年も何卒よろしくお願いいたします。
現時点でこのブログを呼んでいただいてる方はお身内がほとんどだと思うので、
1月15日付でこの記事を上げさせていただきます。
(なぜかはこの記事参照)

ハッピーマンデーだかなんだか知らんが日本の祝日が
フレキシブルに変更されるようになって久しい。
(嫌味です。あと振替休日は否定していません。)
祝日ってなんだっけ?
勘違いしちゃいけないのは祝日はそもそもお休みの為の日ではない。
(余談だが現在の日本人はかつてほど勤勉ではない。
いつの間にか祝祭日数は世界1位。祝日は理由をかこつけたお休みの日の様相。
その上、有給休暇や夏季休暇の実行性を求める行政。。。
強制労働はもちろん絶対いけないが、
働きたい人が働いてなぜ悪いのか。。。役人が働かないからか?)

国が定めた祝日とは国家としての記念日であり「国、国民をあげて祝うべき日」です。
祝日は当然、国によって違う。その国や国民性を示す重要な記念日なのだから。
祝日を見ればそのお国柄や文化、民族性がわかるというもの。
米国では、独立記念日(7月4日)や奴隷開放記念日(6月19日)、
レイバーデイ(労働者の日、9月6日)、
ヨーロッパではイースター(キリスト復活祭、移動祝日、東方教会と西方教会で異なる)、
アイルランドのオレンジメンズデー(プロテスタントの戦勝記念日、7月12日)、
北朝鮮の祖国解放戦争勝利記念日(7月27日、朝鮮戦争停戦の日。アメリカに勝った?日らしい)などなど。
キリがないのでこの辺で。ともかく祝日というのは大切な日、意味がある日なのだ。
(日本は祝日は多すぎて祝日ボケしてしまったのかもしれない。。。)

要は「国民ならお祝いせねばならない日」が祝日である。
そんな大切な日が、ずらすと「連休になるから」とか、
旅行需要が延びるとか消費が促進されるとかの「オカネの理由」によって
動いてしまうのは、いかがなものか。
独立記念日は移動しない。クリスマスも移動しない。春分点は人間の都合では移動しない。
本来、移動させちゃいけないのだ。

元々日本は明治になるまで太陰太陽暦(旧暦)であった。
アジア圏は特に旧暦(太陰太陽暦)の絡みなどでいろいろ複雑ではあるが、
今でも旧暦を中心に祝日の日を定めている中国などの方が正しいとまでは言わないにしても、
「できるだけ正しい日に祝う」という気持ちは大切ではなかろうか。

話をそもそもに戻すと正月である。新しい年である。めでたい。
かつては正月といえば
「まずは」年賀のちょっとした引出物(菓子折りとかお酒とか手ぬぐいとか)を持ちつつ、
お世話になった人や恩師に方々挨拶して回る日であった。
(旧暦だけど昔々の年始というのは、
御所へのご挨拶や戦国時代の親方様への義理ガケから始まっていた。
形式は変わったが天皇陛下が新年にご挨拶なさるのに対して
皆が集まろう、集まらねば、とする人々がそれなりに多いのもこの名残りである)
今の自分があるのは皆様のおかげですよ、
だから今年もお世話になりますよ、まずは新年のご挨拶、と。
で、初詣やお寺の行事なども含め、なんだかんだ不義理をしないように
あちこち挨拶して回ると結構時間がかかって二週間くらいはかかる。

ようやく一息というのが1月15日。
外のことが一息ついて、やっと家のことに手が回る、身内で祝える日としての日。
小正月(こしょうがつ、家の正月なので、女正月、若正月などとも言います。
古くはここまでが松の内)

昔は誕生日が曖昧であり、年齢というのは年初めの1月1日を起点として数えていた。
「満年齢」や「数えで」というのはこの名残り。
12月に産まれた子も歳が明けた瞬間に「1歳」だったのである。
でもって正月のあれこれが終わってようやく身内で祝える
1月15日の小正月、家で大人になる者がいれば、まずはその日に家の中でセレモニーを。
それこそが「元服式」の日。これが「成人の日」のそもそも。

そんな家族や本人にとって、
結婚式などと同じくらい「晴れの日」の一つとして
大切な「大人になる日」が、
オカネの都合でフラフラと移動されてはかなわんなぁと思うのである。

国が何を定めようと、何を標準化しようと、
記念日(祝日)の由来・理由を知らなければ、そもそも祝えるはずがない。
そもそもの意味を知るなら、記念日は移動しないはずなのではないだろうか。
結婚記念のお祝いで美味しいものを食べる日はずれることがあっても、
結婚記念日それ自体はずれちゃいけないよね。

ともあれ新年である。身内で祝うならこの日である。
皆様、本年も何卒宜しくお願いいたします。m(_ _)m

参考
世界の労働時間ランキング
https://www.globalnote.jp/post-14269.html
プレジデントオンライン「日本人は休みすぎ!?」
https://president.jp/articles/-/21927?page=1

 

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気(Qi)についての考察

寒い時期になってきたから、、、というわけでは決してないのだが、
(空気が寒いので少し暖かいもの?を認識しやすいということなのかもしれない。。。)
入門としては人外における「気」というものを認識しやすい季節である。
なので最初に断っておくと、今回は勝手解釈だし、ややもすればカルト的記事です。

「え〜〜?」と言われることを承知の上で、15分ほどでいいから
騙されたと思って試してみて欲しい。

誰にも邪魔されない集中できる静かな環境で、
両手を自分の体の前に出し、手を合わせた(拍手で閉じた)感じから、
ほんの5〜10センチくらい両手を離す。
ソフトボールとか小さなバレーボールやドッヂボールを挟んで持ってるような感じが良い。
で、手がくっつかないように、手を合わせようとしたり、少し離そうとしたりする。
他のことはあまり何も考えず、そこに何かがある、と思いながら。
目を閉じてやるのも良いかもしれない。
しばらくやってると、ただの空気ではなくなってくる。
自分でわかるくらい、ぶよんぶよんしてくるのである。(磁石で遊んでるみたいな感じ)
まるで手と手の間にゴムみたいなのがあるかのように。。。
(ほとんどの人が実感できるはずなので、出来なかった人は
時間や場所を変えて数回トライしてみてください。)

そう、自分の手と手の間に、「何か」があるのである。
実感できない人はこの後の話をしても「はぁ?」だと思うので最初からやり直し。(笑)
(もしくはこの記事をスキップしてください(笑))

これが世に言う「気」である。
今の処、科学的には説明できていないものである。
ちなみに右利き左利きを問わず、右手から左手に流れているものが、
手と手の間の空間で滞留し増幅されているようである。(個人的見解)
ここから先はかなり訓練(修行?)もしくは暇潰しが必要になるが、
練り込んでいくとボール大のものを少しづつ大きくしたり
体全体で実感することができるようにんる。
自分の中をぐるぐるとこの気が巡回しているのがわかるようになる「小周天」、
自分をすっぽり包み覆いこむくらい大きな気のボールを感じる「大周天」、
というような状態に持ち込んでいくことができる。

ド○ゴンボールの「カメハメ波」や触れずに相手を倒す「発勁」というものが、
本当に現実的なものかどうかまでは自分には出来ないので分からないが、
髪の毛くらいであれば頑張れば手を触れずに動かせる。植物が呼吸してるのもわかる。
マンガはともかくも、全否定するものではない、という境地に至る。
(余談だがス◯ーウォーズのフォース、ミディクロリアン数値は架空にしても
そういった東洋的な気功の考えがエンタメ化したものかと思われる。
フォースをを当初、「理力」と造語訳した岡枝慎二さんはセンスがとても良いと思う)

少なくとも目視できない、空気の中に何かがあることを感じることができるのである。
(そりゃそうか、空気だって見えはしないけど、物質だものね。。。)

普通に生きてて普段は意識などしないものだが、
人間の中の気が集中する(発する)ツボは
7つ(第3の目?と言われる眉間もその1つ)あるらしい。
先ほどの手と手の間とか、頭の10センチ上?とか、人外にも。
(密教系仏教の曼荼羅やら仏像のあちこちにやたらある日輪も無関係ではないと思われる)

科学的には説明できないが、僕は、
「空気という物質も、人間のDNAに似て、その他情報が何某か含まれているもの」
と考えている人間である。
好きな人ととか嫌いな人への想いや、嫌な時と楽しい時が「場」を形成していたり、
KYの空気も、雰囲気も、空気中に止まる情報思念体(幽霊)も、
パワースポットも、突き動かされる時代の情動も。
人間の感情であり残滓であり記憶が人外に溢れ出ているものであり、
それが特に集合化群衆化して増幅されたりしているもの、
それが「人気(人脈?)」というものの正体ではないかと思っている。
(「人の気」でないものは地脈、天脈という言い方を僕は好みますが、それはまだ別の時に)

我々の自我とはなんなのだろうか?
「こころ」とはどこに存在するものなのだろうか?
死んだら全てはなくなってしまうのだろうか?
物質的身体がなくなったら自分はいなくなってしまうのだろうか?

これらの答えに近いものがあるいは「気(英語ではQi)」の先にあるのではないだろうか。

科学を追求している人であるほど「わからないことの方が多い」と思っている。
本当に賢い者は、もっともらしく固着させ説明している者を訝しむ。
魚が泳ぐ仕組み、虫や鳥が飛ぶ仕組み、台風の進路、
人間にはまだ分からないことの方が遥かに多いのに。

もっとも分からないものは「心(気持ち)」である。
どこから、なぜ、どうして。

相場は面白い。

そういう人間の人気の織りなすものなのだから。

人間の気の話は今後ここから先あまり突っ込んでは書かないと思いますが、
晴褻の話や気学・占星学の話を機会があれば書こうと思ってるので、
今回はその伏線として。

(2022/01/05 奥山記)

追伸:ところで皆さん、感想コメントしてください、です(笑)

参考(本文とは直接関係なし)
植芝盛平(合気道の開祖):
https://ja.wikipedia.org/wiki/植芝盛平
藤平光一(同合気道の普及者、慶應義塾):
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤平光一

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投資におけるAI

寝覚めが悪いのでまたかと思われるかもだが
AIの話の3部作?を完了させたいと思う。
今回は「投資におけるAI」について。

現在「AI投資」などと謳われているものは宣伝文句として
「客引きが良い」のでその呼称なのであって、
実際のところどういうものなのかは「かなり」怪しい。
なんちゃってなグリッドトレードや簡易に作ったプログラムトレードだって、
言いようによってはエキスパート型の簡易「AI」である。
いやいや。それは今どきAIじゃなくって、ただのシストレエンジンじゃん。(笑)

ここまでの2回で述べてきたように、
今どきのAIなら「深層強化学習型AI」である必要がある。

でもって深層強化型AIに話を限定させると、
同じく説明してきたように深層強化型AIはブラックボックスなのである。
学習させたよ、という
「ブラックボックスに投資行動を任せてみませんか?」
という話なのである。

過去のトラックレコードのエビデンスがあるって???
そんなもんは実績なのかシミュレーションなのかを示してから言え!である。
(後付けのバックテストの結果なんかには何の意味もないものね)
よしんば実績なのだとしても、ブラックボックスなのだから、
人間のファンドマネージャに任せているのと実はあまり変わらない。
(それでも人間よりはマシと思う、というならそれで良いけど。
蛇足だがM○4のアルゴなんかは実は裏側で「人間が生トリガーしてる」ものも
多いよ。気をつけてね。)

加えるなら利用する深層強化学習AIは常に学習し続けているわけではない。
ある期間までのデータを学習させて、
「うん、まぁこんなくらいでいいんじゃないか?」
と提供・採用する会社(金融機関?)がOKを出した学習結果で一旦は固着する。
そう、顧客に宣伝し、利用させるAIは「学習し続けない」のだ。
もちろん開発者はその後も学習を続けさせているだろうが、
そうやってできたAIは、「別物」である。
(デルタ株とデルタ・プラス株みたいなもんです、、、って余計わかんないか。)
当然、その別物を利用者向けに採用するには会社としての再びの「承認」が必要になるし、
そうやって承認されたものが「規約(免責条項等)の範囲内」
において採用されるわけである。
つまり自動的に学習し続け実装され続ける自動進化型ではない。

次に、学習を続けるとどうなっていくのだろうか?
売買するべき判断ポイントやロスカット、保有ポジション量が変わる。
当然パフォーマンスが変わってくる。
9.11やブラックマンデーを学習したAIと、
そうでないAIでは当然動きが変わってくる。
今後日経平均が1日で2000円下落・上昇する局面があったとしたら、
予期せぬロスカットをくらってしまったとしたら、
それを学習していないAIと学習したAIの動きは違ったものとなることとなる。
つまり「これまでの事象の想定外」はAIには織り込まれていない。
もうちょっと言うなら相場の動きは人間の織りなすものだから、
投資対象や銘柄によって動きが同じようで結構違う。
外国為替を取引するのと個別株を取引するのは違うのである。
なので、それぞれの学習用サンプルが必要となるわけだが、、、
深層強化学習で安定した成果を示させるにはどうにも圧倒的にサンプル不足のように思う。
(AIの学習については先2回の話を参考にしてみてほしい。
同じものを投資として人間が取り組んでいるのだから、
知らないで相場はってる人間よりはマシな結果にはなるのかもしれないが、
それでもそれが普遍的、汎用的なものである、ということは示さない。)

ついでに。
究極のところ最高の意思決定をするAIが出来て、それがマーケットを席巻したとする。
1つではなく2つ同じAI同志を戦わせた、取り組んだ結果はどうなるだろうか。
投資はゼロサムゲームである。ある者が勝ち、他が負ける。
利益を出す者の反対には、必ず損失を出す者が必要である。
将棋だってそうだが同じAI同志で戦ったとしても必ず「勝敗」が最後は発生する。
引き分けがない以上、同じAIを使ったとしても儲かる者と損する者が発生する。
同じAIを使ったところで、皆が上手くいくわけでもないのである。

そこまでわかってて、それでもAIの方が自分が投資するよりマシだから、
と割り切って言うなら話はわかる。
しかしAIを魔法の杖のように盲信しても、AIだって万能、完全ではない。
ポジション管理やリスク管理に限定して使うならいいと思う。
しかし自動車の運転のようにインシデント(発生事象)に対し
複雑だが原則同じ操作をし同じ結果を導きたいものや、
音声認識のように普遍的な部分を高度な計算機としてAIに任せるのは良いと思うが、
変化し続ける状況とその解に対して柔軟な意思決定が求められ、結果も変化し続けるものを
ブラックボックスであるAIに判断を委ねすぎても、あまり明るい未来はない。
(「将棋じゃなくって、実は囲碁でした〜、さてどうする?」とか、
「ここから先はババヌキのババは3枚でーす」となる可能性はないのか?ということ。
今の所、AIは臨機応変に「おっけー、それならね、、、」という対応はしてくれない。
「これまでの最適解」と「そこまで読むか」とは違うのである)
(テクニカル分析がダマシばかりなのと同じように、
主流のAIが出来たとすれば、むしろそれは打ち負かす格好のターゲットであり、
狙い撃ちすべき美味しい獲物という風にも僕には見える。)

結びとして。
コンピュータ、機械は確かに便利な道具である。
しかし、人間が人間たる創造性を失ってはいけない。
機械に負けてはいけない。まして機械を盲信し機械に踊らされてはいけない。
天気予報以上に、相場は難しい。
人間の欲の綱引きの戦いなのだから。
明日売るも買うも個人の自由。1億円損しようが耐える人間もいる。
人間が完全合理的な意思決定ばかりをしないのだから、
合理的な戦法ばかりを唱えても確実に勝てるというものでもない。
人気(人間の気持ち)に絶対はない。想定はできても、完全にはわからない。
どこまでいっても不確定事象な、そんなものを完全に予測する術はないし、
万能なパターンアルゴリズムを獲得することは出来ない。
我々にできることは自己の限られた資金を相場という波の中で
適切にコントロールし続けることくらいである。
(その為の支援AI(高級計算機)というなら話はわかる)

そんなこんなで、
機械なんてなんぼのもんじゃ。所詮機械なんて機械でしかないわ。
と機械の上前をはねるくらいに、AIなんかに負けない自分でいないと、
人間の人間たる価値の存在理由(レゾンデートル)が失われてしまうと思うのである。

(それなりに全般、詳しい自分がそう言うのである、
と言うことだけでも覚えておいてほしい。これにてAIの話は終わりです。)

(2021/11/20 奥山記)

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人間は人工知能を信じきれるのか

将棋の藤井聡太3冠が竜王を奪り4冠になったので、
折角なので連続ではありますがAIの話の続きを。

HEROZ(東証1部:4382)という会社をご存知だろうか?
そう、昨今めっちゃ強いといわれる将棋ソフトの会社である。
現在最強を誇る将棋AI「Ponanza」の開発者達に関係する会社でもある。
ほぼ将棋ソフトで上場してしまうんだから、すごいねぇ。。。
(もちろんそれだけの会社ではないですよ、念のため。)

この創業者の皆さんとも知己であり、
出会った時には、もっぱらコンピュータやゲームの話ばかりで
お互いの目をキラキラさせた記憶がある。
私の辞任ほどなく代表を勤めている林さんから私的にメッセージもいただき、
仕事に限らない繋がりを泣けるほど嬉しく思ったものである。

さて、その最強ソフトと言われる将棋AIは前回説明した
深層強化学習型AIかというと、実は元々はそうではない。
元々(電王戦でプロ棋士に勝ってしばらくくらいまで)は
開発者達が多くの心血を注いで作り込んだもので
どちらかといえばエキスパート型AIである。
これをさらに強化すべく深層強化学習の要素を取り込み、
現在の無頼の強さに発展させてきた経緯があるのである。
AIの創造主たる開発者達の情熱には頭が下がる。

話は変わり前回の話に紐づくが、
エキスパート型AIは、コンピュータ君が答えを導くための、
その土台となる考え方(取捨選択や環境把握)は創造主たる人間がデザインする。
一方で(真の)深層強化学習は
ニューラルネットワークの構造設計には人間が関与するものの、
膨大なデータを学習させることにより「コンピュータ自体が学び成長する」のである。
当然そうやって出来たものは「ブラックボックス」であり、開発者や利用者が見ても
「なんでそういう答えを出したのかの経緯やロジックがわからん」なのである。
「お茶出して」とお願いしたら「ぬるいコーヒーが出てきた、なぜ?」という
感じに似ている。人間の思考や行動の本質的なところが他から確信できないのと同様、
深層学習型AIの中身はブラックボックスであり、その意思決定過程は
究極のところ、「わからない」のである。

子供が変な言葉を覚えてきて親が困ってしまうのにも似て、
深層強化学習型AIは、変なデータや間違ったデータ、間違った答えを教え続けると
おかしな結果を出したり、答えが意味不明になったりする。「誤学習」「過学習」という。
apple社に怒られるかもしれないがsiriは宇宙人はいるのかなどのヘンテコ質問には
饒舌に答えてくれるが日常の応答に対しては整理されてないデータによる
学習のしすぎで「かなりおバカ」な感じがする。
(以下はあくまで例として。問「1+1はいくつ?」、
答「状況により色々な考え方がありますが自分で計算するのも良いものですよ」、、、、
ておい!そんなこと聞いてないわ!(汗))

個々の人間だってどういう行動をとるかは曖昧なので、
その辺は同じといえば同じなのだが、
「コンピュータが」ということになると現実は結構危なっかしい。
文字の判読や物体認識、音声・顔の認識精度向上、ゲームとかならともかく、
車の運転や刑罰の判定、つまり人間の生死に関わるものや多額の金額が絡むもの、
やらかしてしまうと取り返しのつかないもの、などを
プログラムした通りに動くエキスパート型ではない、
学習した結果で自立的に答えを出す深層学習型AIという
「ブラックボックスに任せていいのか」という問題はとても大きな問題である。
判断に至った中間の思考過程や中間結果を確認したり、
あるいはその過程において人間によるチェック、承認プロセスを必要としたりという
ことが当然ではあるが求められる事になる。

ここにAIの実導入の難しさがある。
「人間だってきちんと車を運転できるかどうかわからないのだから、
どう考えてそう運転するのかは誰もわからないにしても、
学習をしっかりしたAIに任せた方が、安全である。」
という文脈をYES と言えるかどうか、なのである。
AIによる自動運転が事故を起こしてしまった時、誰が責任を取るのか。
子供の責任は親が取らなければならないが、いつまでもそうとばかりは出来ない。
子供が大人になって独り立ちするには、やはり経験が必要で、
親は危なっかしくも見守り、信じ、任せ、手離れしなくてはならない。
いよいよ人間とコンピュータの関係はそういうところを迎えつつある。

深層学習型AIの課題は多い。
画像や文字、音声の認識などが人間の精度や速度を
はるかに上回るところまで来たことは述べた。
しかしそれら個々のAIの学習結果は「まだ繋がっていない」。
将棋が強いからといって囲碁が強いわけではない。
音声を文字におこせるからといって意味を理解しているわけではない。
本という知のアーカイブから学ぶことも出来ないし、
気持ち・感情といったものも理解していない。

それでも、
人間だって脳のニューロンの電気信号によってるのだから、
あるいはこれらの問題が解決される道筋は、
いずれ近い将来に訪れはするだろうと僕自身は強く思うのである。

またしても書ききれないので、
投資におけるAIの話はまた機会があれば。

(2021/11/18 奥山記)

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このくらいは知っておくべき、今どきのAIの話

僕の今どき(ここ数年)の人工知能との出会いは
まず東大の松尾豊教授(最初知り合った時は准教授であった)である。
当時会社を辞められるなら学生に戻って弟子入りしたい、くらいの感銘を受けた。
なのでこの記事は奥山の勝手な記事であるが、松尾さんにインスパイアされている。

人工知能(Artificial Intelligence:AI)といえば、まずは奥山的にはエミーである。
(え!?古すぎて誰もわからんか。。。40年前?のゲームです)
言うまでもなく知能などは備えていなくて、
問いかけたことを内部のデータベースに照会して
あらかじめインプットされている返答をする、というシンプルなものである。
人工知能!という甘美な言葉の響きに分岐ルーチンなどをプログラム的にあれこれしたらもっと人間らしく・・・などと色々当時中学生の奥山は考えたものである。
でもそれはプログラムでしかないのであって、
この考え方の延長線では考える人工知能にはならない。
世間の当時のブームもそういう意味で驚きの後の落胆として早々に冷めていった。。。

次に人工知能の言葉を聞くのは2000年前後。
おぉ、、、最近のことのように思えても、もう20年前のことなのか。
エキスパート型AIと言われるもので、松尾さんに言わせると「大人のAI」。
専門的な情報を全てデータベースにインプットしておき、
問い合わせ・質問によってその最適解を「計算して導き出す」。
「路線検索」「最短ルート」などで普通に日常お世話になってるやつである。
このタイプのAIは「最適解を算出するプログラムが組まれていること」と
「全てのデータがあらかじめ正しくインプットされている」ことを
前提として処理速度の速いコンピュータらしく、「答えはこれです!」と
人間では不可能なスピードで答えを示す。
用途は限定されるものの今でももちろん使われている。
ではこれは「人工知能」と言えるのか?う〜〜ん。
計算式(考え方)は人間が作ってやらないといけないし、
データも逐一アップデートしてやらないといけない。
人工知能というよりは「目的特化型の高級計算機」だよねぇ。。。
ということで、なくなりはしていないが、こちらもブームは少し下火になっていく。

現在、世間で話されている人工知能(AI)というのは
ここまでの話とは全く考えの違うものである。

そもそもはコンピューターによる「画像認識」力を、
どうやって向上させるかということに話が始まる。
画像認識はコンピュータの苦手とするものであった。
リンゴの写真を見ると、「これはリンゴだ」と人間には大体わかる。
腐っていても、半分にカットされてても、ウサギさんになってても、
大体わかるのである。(笑)
「画像認識が苦手」というコンピュータの特性は
「操作しているのがコンピュータではなく、画面に向かっている人間」である判別として、
なりすましや機械による連続接続などの防止をするために今も利用されている。
(横断歩道のある写真を選べ、とか字がグニャグニャに書かれている画像をみて
なんと書かれているか入力しろ、などというやつね)
セキュリティに使われるぐらい「コンピュータには画像はわからんだろう」だったのである。

この画像認識の向上を図るべく多くの研究開発が進められ、
またそれを評価するコンテストなども開かれてきたのだが、
度肝を抜いたのが、2012年にGoogleが発表した「Googleの猫」。
それまでは「猫」の画像をなんとか判別させようとして
「猫ってのはね、耳があって、ヒゲがあって、足が4本で、尻尾があって。。。」と
詳細に特徴づけを定義し、それによってなんとか判別させようとしてたのだが、
そういうアプローチではなく、人間の脳、ニューロンに似た曖昧な判定構造を作り、
それに対して猫の画像をこれでもかと死ぬほど(10万点を超える)示して、
よくわからんなりに「これも猫!これも猫!」とコンピュータにインプットし、
「正解!」「間違い!」と答えだけ示し続けたのである。
ただ猫の写真を見せて、猫だよ、猫だよ、と言い続けたのである。
何度も何度も繰り返すうちに、初めは当然判別することができるわけもなく
何がなんだかわからなかったものが、だんだん「猫ってこんな感じ?」と
コンピュータの「画像データを見て猫を判別する精度が上がっていった」のである。
人間が行ったのは脳組織に似た(とても簡単な)ニューラルネットワークの構造設計をし、
あとは画像を死ぬほど放り込んで、イエス、ノーと答え合わせをし続けただけ。
あらかじめ何か特徴をプログラムしたわけではないし、
コンピュータが何をどう論理化させて「猫だ」と認識するのかは
ブラックボックスでわからないままなのだが、
ともかく猫を認識する精度は見せれば見せるほど上がっていき
足が無かろうが、後ろ向きだろうが、肉球だけだろうが「猫だ!」と
コンピュータが判別するところまで行き着いてしまったのである。
猫ってなんなのかを教えないでわかんないまま、
死ぬほど見せ続けたら判別できるようになった、、、
現在のAIの基礎となる「深層学習(Deep Learning)」の夜明けである。

今ではこの画像認識法も物体認識や人間の顔認識などに普通に使われています。
(スマホの写真アルバムなどで勝手に人物毎に分類したりしてくれてるのとか。)
ちなみにコンピュータがどうやって判定してるかという中身は「今も当然わからない」まま、「なんとなくだが、すごい精度で」判定するのである。現在ではこの認識精度は最早、人間をはるかに上回っている。帽子かぶってサングラスして上底の靴を履いてスカート着てる奥山さんでも見つけてしまうのである。(そんな格好はしないけど。(笑))

さらに。

この画像認識の学習を動画や連続した画像として示し、
行動をとった場合、それが正解だったか不正解だったかを
同様にスコアリングして学習させていく。。。
(「なんとなくだけど、この後は右?」「ぶぶー、左でした〜!」という答え合わせ。
スコアリング。正しい行動には得点。ほめてやる。)
こんなことを続けた結果、何も教えてないのにコンピュータが「ブロック崩し」の達人がなってしまったのです。人間よりゲームが上手い。
「強化学習(Reinforcement Learning)」という。

現在AIと言われるものはこれらの「深層学習」と「強化学習」を組み合わせた
「深層強化学習」というものである。
「じっくり、とことん、繰り返し繰り返し教え込んでいく」と、すごいことになるのである。
空っぽなところから学習し経験して、知識を身に付けさせるのだ。
松尾さんに言わせると、知らないことを知らないなりに吸収してすごいことになっていく
「子供のようなAI」
なのだそうだ。

人間の脳に似たニューロン構造のモデルに画像認識、行動スコアリング
の「学習」を行うことによって、「曖昧だが確かだと思う最適アウトプット」を
コンピュータが出し始め、最早、多くの分野でそれは人の出す答えよりも
速く、正確になりつつある。

漆塗り職人や高所作業の鳶職、棚田の田植え、
長い経験の中での習熟を要する複雑なもの、なかなか人間が習熟できないもの。
特にこういったものほど人工知能に置き換わっていく有用性が高く、
面白くも取り組みたいものだそうである。
レベル4と言われる自動運転技術も、この文脈の中にある。

書ききれないので、
学習型AIの課題、投資・金融に対しての適用性、などはいずれ。
今回は昨今の「AI」と言われるものの基本理解ということでお許しいただきたい。

(2021/11/15 奥山記)

参考:
松尾豊氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/松尾豊
ディープラーニング
https://ja.wikipedia.org/wiki/ディープラーニング
深層強化学習(DQN)
https://ja.wikipedia.org/wiki/DQN_(コンピュータ)
強化学習したコンピュータによるブロック崩し
www.youtube.com/watch?v=HOoUuPsP0Bs

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借りた金は返さねばならない。

当たり前のタイトルがついてるが最近は
それが一部では当たり前ではない風潮でもある。
なんせ「なんたら法律事務所」などが
こぞって「利息返ってくるから任せろ」などと
TVCMまでバンバン打っているのだから世も末である。
(金銭問題の仲介なのでそのなんたら法律事務所はそれをタネに回収できた成功の暁に半分近くノーリスクで報酬として得るのだから弱い者の味方というよりは無知な弱い者の権利をかすめ取っているハイエナのように自分には見える)
(脱線するが、司法試験の合格率、合格人数が上がり誰でもと言ったら怒られるが、
知識のない取り立て屋の手先としてしか機能できない弁護士が量産されているのは
いかがなものなのだろうか)

たとえ高利だろうが、戦前戦後のように高利と知らず借りた、肩代わりした、
トイチ(10日で1割)の沼にハマった、借金がために吉原に娘を売った、
などということをさすがに見かけなくなった世情である以上、
お金を借りたいときに貸してくれた人に借りた者は心から感謝すべきであるし、
借りた金は必ず返すという自負を持って臨むべきなのは至極当然のことである。
(シャイロックよろしく、とかく金を貸す人間は悪者だという風潮があるが、
返さない、利払いが遅れる者もいるリスクを含み金を貸す人間は人徳者である)

カネを借りた人間は感謝こそすれ居直るべきではない。
破産宣告してチャラになろうがなるまいが、
一生かけてでも貸してくれた人の恩には報いるべきである。
法律なんてどうでもいい。
「借りた金は返さなければならない」
借りた側としては、この気概は当たり前であるが、重要である。

今回は借金論を話したいわけではない。そんな下衆な話ではないのだ。

故人であるが、財務次官であった香川俊介氏の生前を想う話である。
私が初めてお会いした時は主計局主計官の肩書きの頃であった。
会社が霞ヶ関の近くにあった関係もあり、私のような若輩に
たまには世間の話を聞かせろと昼食を数度ご馳走までしていただいたことがある。
穏やかかつ人なつこく、とても思慮深い方であった。
言うまでもなく財務省といえば国家の財政を預かる大金庫番であり、
財務次官はその事務方のトップ。
氏は最後の最後まで我がこととして膨張する国家債務のことを案じ続けておられた。

(私はマーケットオリエンテッドな消費税の段階的撤廃論者ではあるが)
国家財政を立て直すことは重要なことであり、
財政の無駄遣いをやめ、行政の効率化を図り、債務は一掃すべきだと強く思う。
色々な理由はあれど、どだい年収600万円の人が収入以上に毎年1000万円を
超える支出をしているような状態が長く続けていることがおかしいのだ。
国の借金は膨らみ、歳入60兆円に対して歳出は100兆円を毎年上回る。
金利を省いた国家財政の経常収支を合わせるという「プライマリバランス」ですら
有事有事と理由をつけ先延ばしにし支出を増大させ続ける日本政府により
掲げているプライマリバランスの2025年達成など完全な絵空事になりつつある。

金利以外の経常収支をプラマイゼロに合わせればいい??
いや。それでは国債の金利支払い分はどうなるのか。金利支払い分だけ、
また借金が雪だるま式に増えていくではないか。
経常収支のバランス(釣り合わせ)は「まず」の通過点なのであって、
当然、「金利支払い含めて」財政収支を合わせなければならない。
いや、それだけではない。
冒頭の話に戻るが「借金は返さなければならない」のである。
国家を破綻させるわけにはいかないのだから。

私の文章力が乏しく伝えきれないのが悔しいが、
香川氏は増え続ける国家の債務を自分が借りた金のように重く受け止め、
ずっと悩み続けておられた。
「奥山くん、金利をゼロにすることはできるかもしれないが、
借りてしまった金をなかったことにすることはできないんだよ。
借りた金はいずれ返さなければならないんだ」
あぁ、この人は本当にお国の金庫番だ。国の宝だ。
自分が作った借金でもないのに、その責任を引き受け、
こんなにも国家の財政を案じ自分のこととして苦しんでいる人がいる。
それに比べ、なんと自分のちっぽけなことか。そう思ったものである。

(こんな話をしても与野党含め性根で国の借金のことを受け止めている政治家は
僕の知る限りでは現与党の副総裁くらいしかいない。)

返せるなんて思ってない。
返す気なんてない。
その時は自分は責任者じゃない。
今の風を自分に持って来れればいい。
今やったとを示せればいい。
支出は増やすもの。
予算はぶんどるもの。
規制はかけるもの。
返すのは自分ではない。
それが仕事と思ってる政治家や役人が多すぎる。(いますけどね)

借りた金は返さねばならない。
その責任とともに金は借りなければならない。

(2021/11/02 奥山記)

参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/香川俊介
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴェニスの商人

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世の中に不満があるなら自分を変えろ

今回はアニメの話。
(かなり前の作品ですが、自分ではそのうち語りたいと思ってましたので今回書きます)

タイトルの言葉はご存知だろうか?
マニアックですが、アニメ「攻殻機動隊SAC」の最初の口上。

そもそもの映画「攻殻機動隊」こそが日本アニメを世界に知らしめた
押井守監督によるジャパニメーション第1号なわけですが、
かの押井守氏率いる制作集団がプロダクションI.G.。
(上場の後、持株会社化し、現在の上場銘柄としては「IGポート」。)
その押井学校の級長ともいえる神山健治氏が手がけた作品が「攻殻機動隊SAC」。
同タイトルの劇場版やら続編やら色々あるのではあるが、今となっては上記タイトルの
TVシリーズが同作品群のコア中のコアになってるので是非ご覧あれ。(奥山オススメ)

で、今回はその作品を語りたいのだが、先に少し余談。
なんとその心意気に惚れすぎて東京は三鷹の本社に押しかけたことがあります!
ビジネスの打ち合わせも数度し、もう少しで一緒に仕事ができる、、、
実現はしませんでしたが、チャンスがあればと、実はまだ狙ってたりして。
一度きりの人生ですから、仕事するなら、おもしろくないとね(笑)

でまぁ、ネタバレをお許しいただきたいが、
その「攻殻機動隊SAC」というTV シリーズの底流に置かれた素地が
いきなりアメリカの古典にジャンプしますが、
JDサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」。
読んだことありますか?

一緒にしちゃうと怒られるかもですがフィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」と並び、
イノセント(無垢)なるアメリカをよく描いている文学作品だと思うのです。
(金融的にはギャツビーの方かもしれないですが、今日は「ライ麦〜」で。どちらも読みきるの難しいですが。。。)

そもそも「ライ麦〜」は、主人公ホールデン・コールフィールド少年が普段の自分の周りのいろんなものがインチキ、偽物に見えたり、逆に普段の些細なことをすごいと思ったり、群衆(集団)の中のコンセンサスではなく、個人の目線での感じたことや意見を素直に発露していく。かの少年は勉強もあまり出来ず、スポーツやケンカも苦手なパッとしない少年なのですが、少年なりに一生懸命にいろんなことを考えている。
日常の欺瞞に満ちた大人を批判し、形式的に動く社会を嫌悪し揶揄する、イノセントな若者が表現されています。
自分の周囲のおかしいことに素直に疑問を投げかけ、些細なことに感動する、個としての批判的精神や個へのリスペクトや、改善されず惰性で動く社会、大人同士の嘘や自己都合が渦巻く社会へ嫌悪、が内容的に評価されての名作、というところでしょうか。
(怒られそうだけど、日本で言えば、内面描写で言えば夏目漱石の「こころ」系?いや無垢なる若者が主人公の太宰というべきか。)

攻殻機動隊SAC(以下、作品)はTVシリーズを通して、神山氏が影響を受けた
この「ライ麦〜」を踏まえ、その思想の行き着く先を問うている作品です。
(もうSFじゃない?いやいや。アニメも奥が深い。。。)

作品内にて「ライ麦〜」の主人公の少年の、
周囲の欺瞞に嫌気がさしての言葉がまず引用されているのですが、

I thought what i’d do was.
I’d pretend I was one of those deaf-mutes.
(僕は目を耳を閉じ、口もつぐんだ人間のふりをしようと思ったんだ)

作品ではオリジナルに中段で上記文章に
「 or shoud I?(いや、そうしない(声を出した)方がいいのか)」
という部分がライ麦の引用句に付け加えられました。自分への問いかけです。

また冒頭に戻ると上記の言葉への答えを醸して、

「世の中に不満があるなら自分を変えろ。
それが嫌なら耳と目を閉じ口をつぐんで孤独に暮らせ。」

の口上から話が始まるのです。

イノセントなまま何も聞かず見ず、自分の声を出しもしないまま社会で生きていけるかと
いうと言うまでもなくそれは不可能で、結果としてライ麦の少年の問いかけは、
「自分を変えなさい」
に着地せざるを得ないわけです。

作品では人間が孤独であることを恐れるがあまり他者に迎合しようとすることをネットが加速させ、一種の集団パニックや集団ヒステリー、自己の意見であるかのような他者からのサブリミナル(偽物たちによる本質のズレた情報・状況の拡散)となることをメインストーリーにしており、とても考えるところの深い作品です。

また作品内に、投資取引を主人亡きあとも機械が実行し続けるエピソードもあるので
ご興味のある方はぜひご覧あれ。

うん。自分から変わろう。

(2021/10/27 奥山記)

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消費税の話。

今回は消費税に関して。
(途中は野党の公約批判のように聞こえるかもですが、
感想は最後まで読んでからお願いします。(笑))

選挙公約として各党頑張って野党は「消費税、なくす!下げる!」と言っています。
多くの国民は既成事実になってしまったこの消費税10%は「もう変わらんだろう」
と考えているし、そもそも消費税3%を決めた竹下政権の時から消費税をとる理由を
色々言い訳しながら、生活の消費に直結する万人徴求の税金をこれまでに10%まで
引き上げてきました。最たる言い訳は「増額分は福祉にあてる」などというものです。
でもって多くの国民は、「そっか、なら仕方ないなぁ」と増税はイヤ(反対)だけど
了解(許容?)してきたここまでの日々。

実際はというと消費税は国家歳入の一部でしかなく目的別税収ではないので、
何か特定の事案にのみ限定して使うために徴求されているものではない。
つまり税収の手段の一つであり、それを取る、引き上げる、というのはただの増税。
確かに国家予算に占める福祉関連の額は年金・医療等、年々引き上がっているわけ
なのですが、消費税とは直接関係ない、です。

次に消費税の額。
国家歳入が約55兆円として、そのうち現在消費税はなんと20兆円を占めます。
実に3分の1以上の税収が消費税によるものなのです。
(財務省の役人の頭の中では、消費税1%増減すると2兆円の税収の増減という
簡易計算が成り立っています)

え?これをゼロにするの?国家の収入3分の1なくなっちゃうじゃん。
ただでさえ借金(国債発行)して毎年100兆とか補正含めて150兆とか
歳出しているんだから、これ以上歳入減らしてどうすんのさ。
消費税なんて下げられるわけないじゃん!!国家財政破綻しちゃうよ!
(自分の給料に置き換えて「兆」ではなく「万」で想像してみてください。
収入源の200万円分が消滅し、年収550万が350万円になっちゃうかも、
ということ。あ、ちなみにこの人はいろいろ言い訳しつつ、
借金しながら毎年1500万円使っている人、なわけなのだが。)

ということで、国家の財政を司る財務省はもちろん、財政のやりくりを考える必要が切実な内閣を擁する与党ほど、消費税は下げたくない。むしろまだまだ引き上げたい。
この消費税問題には触れたくないのである。今ある歳入を減らすわけにいかないから。
野党も半分にするだゼロにするだと無理筋言うんじゃねぇ、
というのが前述の目的言い訳でない事くらいわかっているが、
国家を思う国民の現状の消費税の容認状況。

ここで仮説。
仮に消費税が100%(販売価格に倍乗せ)になったらどうなるか?
1%2兆円だから現在の税収に加えて90x2兆円で180兆円の税収増となりうるか?
はぁ?バカですか?国民総生産が500兆円しかないのに180兆円も
税金増やせるわけないじゃん。そんなことしたら経済壊れちゃうよ。
そのとおり!国という単位の中で回転しているお金(経済)は、
そこから吸い上げようとすれば吸い上げようとするほど回転しなくなる。
増収どころか経済が萎んでしまうのである。
(タバコ税上げる→吸うひと少なくなる→税収減る→タバコ税あげる、、、
の連鎖と同じと考えると分かりやすい。
そう考えると、タバコの本当の増税理由は誰かの意地悪にも見えます。。。)

おわかりだろうか。
お店で考えてみよう。
店長「最近お客さん少ないなぁ。前は毎日10万円の売上だったのに今は8万円。
どうしたら売り上げ10万円に出来るだろう?」
店員「そんなの簡単っすよ。売ってる値段を3割値上げすれば、
現状のままでも売上10万円になるっす!」
店長「はぁ?バカか、お前は。ただでさえ売上少ないのにこの上値上げなんてしたら
お客さん来なくなって、何も買ってくれなくなって、売上は半分どころか倒産だわ。」
店員「じゃあ、どうすればいいんですか!店長はどう考えてるんですか!」
店長「価格で行くなら多くの人に来てもらうために、、、仕方なく値下げかなぁ。。。
いや値下げしないために付加価値を。。。」
・・・・・

話は少し脱線しますが、
織田信長が勢力を大きくできた政策は(本当か嘘かの歴史的考察はともかく)、「楽市楽座」。
豊臣秀吉の大阪の堺湊も同様、「税金(ほぼ)とらんから好きにやれ」である。
もちろん潤った先には
「少しは返せ、世話してやったろう。今日のお前があるのは誰のおか。。。」なのですが、
まず市場の活況ありき、が功を奏すのです。
規制やみかじめは少ないに越したことはなく、市場が大きくなれば、
そこから得られるものは自然に膨らんでいく。
いかにして市場を大きくするアップスパイラルを創り出すかが
ビジネスにとっては優先事項であり、そこさえ維持できていれば手に入るものは大きくなり続け、自然に増えていく。
市場ありき。これがマーケット・オリエンテッドな考え方です。

話を戻すと、
「お金がいるから値上げをしよう!」というのはお金(市場)を作ることのできない、
役人の閉塞的なそろばん勘定です。自分の都合のために首を絞めにいく行為。
本来税収を増やしたいなら「損して得取れ」で「世の中(経済・景気)をまず良くする」
でなければならない。
世の中の金回りが良くもならないのに税金を引き上げると、そりゃあ不景気にもなるわ。
少し景気が良くなっても、税金がその分増えてるなら、そりゃあ国民的には
「景気っていいんだっけ?実感ないなぁ」になる。

長くなったが話をまとめにいくと、
歳入減に臆することなく、
「消費税は段階的にゼロまで下げるべきである。」というのが自論。
市場が潤えば、それだけ税金も自然に増えるというもの。
消費税を引き下げたに倍した(乗じたと言っても過言ではない)経済効果が市場に生じ、
早晩その減税効果は歳入増にそれほど時間をかけずフィードバックされる。
当事者の都合(役人のそろばん勘定)ではなく、
顧客目線(どうやったら世の中が元気になるか)で、
考えてみれば難しいことではない。
計算尺で測った都合ではなく、人間の目線で考えればわかること。

消費税悪論や撤廃論は与党議員の中にも多く存在します。
ただここまで段階的に積み上げてきた行政のシステム、
前任者の取り組みを壊す行為はかなりタフでないと難しい。
また歳入減を先行し、歳入増を図る(未来事象なので皮算用と捉える向きが多い)
方針転換は、やはり上手くいかなかったら誰がどう責任とるんだ!という
プレッシャーに対して強いリーダーシップなしでは難しい。

1億総中流?平等?そんな話じゃあないけど、
消費税は下げるべきだ。
日本経済を活性化させるために。

ドーピング(補助金やバラマキ)でなんとかしようとするのでなく、
良い土壌を作りましょうよ。

理由として勘違いでもなんでもいいから、
誰かそっちに持っていってほしいなぁ。
そうすれば金が回って、景気が良くなって、
国民が幸せになる。
結果として、国が豊かになる。

参考記事・外部サイト
https://www.nta.go.jp/about/introduction/torikumi/report/2020/01_3.htm
https://www.asahi.com/articles/ASP756WRDP75ULFA00W.html

(2021/10/21 奥山記)

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BTC(ビットコイン)贈与時の税金について

登場人物
Aさん:最近お子さんが誕生した
Bさん:Aさんの知人。Aさんにお祝いとしてビットコインを贈与
Cさん:Aさんの知人。5人の子持ちパパ
Dさん:Aさんの知人
奥山先生

会話
Aさん   :先日子供が産まれ嫁が病院に居るため、もうすぐ3歳の息子と
                 二人暮らしをしております
みんな   :おめでとうございます!
Bさん   :おめでとうございます!
                 もしよろしければ、出産祝いにビットコイン送ります
Cさん   :Bさん、まじですか(なんと!?)
                 自分も頑張ろうかな🤔 でも、これから6人目は大変だから諦めよう
Dさん   :既にお子さん5人ですか!!国に貢献してますね
Aさん   :皆様メッセージありがとうございます!
                 まだ数日ですが一人で育てる大変さを身にしみて感じながら
                 生活しております。
                 Bさん、ありがとうございます!折角ですので遠慮なく頂きます笑
                 玉帳作るにあたって、仮想通貨受渡のパターンも各社調査しなければ
                 ならないですね。
Dさん   :私も出産祝いを送るために調べたのですが笑、
                 暗号資産を出金(譲渡、購入、別の暗号資産購入)する際には、
                 取得価格で計算なのですね
                 玉帳ないと計算できないと思いました
                 1BTC送ってマイナスかと思いきや、(安い時に買ったなら)
                 儲かったんだから税金払え。と言われるってことですよね??
Bさん   :多分ですね、贈与になるので、所得税は課されないと思います。
                 ただ、贈与税をAさんが払うことになると思います。
                 1BTC送っちゃうと贈与税で迷惑かけちゃうので、
                 1satoshiほど送るようにしますね
奥山先生:贈与税の件→(笑)
                 おっしゃるように、もらった側が贈与税の申告が必要です。
                 取得価格ではなく、移動時の価格で計算となります。
                 5万円で買った0.01BTCを6万円の時に0.01BTC譲った(もらった)
                 とすると、受け取った側は「6万円の雑所得」、あげた側は5万円の
                 取得価格の減少に加えて、6万円の価値のあるものを放出したのですから
                 追加で「1万円」分は利益が出ているものを「決済して実現し」譲ったと
                 考えますから、しっかり計算(申告に加える)する必要があります。
                 (極論100万円で手に入れたものを600万円で譲って、、、
                 となると雑所得税率50%だとすると、
                 ゆずる側が500万円利益が出ているので、まず譲る側が500万円利益
                 申告し、250万円の税金を払う。
                 受け取る側は600万円のものをもらって贈与税50%、
                 ということで300万円の税金を払う。
                 双方だと550万円税金が発生する、と考えておいた方が良いですね。
                 (なんじゃぁそりぁ、ですが、そうなんです)
                 あげた側、もらった側、双方に1satoshiでも玉帳つけて数えるようにね。
Dさん   :先生ありがとうございます。やはりそうなんですね。
                 GMOコインは送付0.02BTCからでした。適切な祝儀額🎁
Bさん   :先生、私も言った後に気になって調べましたが、おっしゃる通り
                 あげた側も所得税かかりますね。
                 誤情報、失礼いたしましたm(__)m
                 でも、低額譲渡にしろ贈与にしろ、時価との差額を所得に加えて、
                 その上贈与税もとるっておかしいだろ、と思いました。
                 二重課税だー!と、言いたい笑
                 こういう所でも税制面の不遇を感じました。
                 Aさん、出産祝いはやっぱり無しで!!
Aさん   :先生 皆様、ビットコインの件、大変勉強になりました!
                 簡単に出来る気がしてましたが、知らなかっただけで非常に手間や税金の
                 かかる行為なんですね。
                 Bさん、お祝いのお気持ちだけで十分ですよ!
                 ありがとうございました!(^o^)


以上

(2021/10/15 スタッフよりコメントピックアップ)

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